Everything Flows vol.2『20年前、タイのチェンマイで』

代表の高木です。

今年もあっという間に師走になって、本当に時の流れの速さを感じます。

さて、皆さんは、1年でどうしても忘れられない日はありますか?

家族の誕生日や記念日、残念な不幸があった日などとは別に、です。

私には、1日だけどうしても忘れられない日があります。

それが、12月4日です。

今から約20年前のことになります。


2001年12月4日。

私は、タイ北部の古都・チェンマイにいました。

山岳民族の子供たちを保護する児童養護施設・希望の家を長期取材するためです。

その年の6月からチェンマイに住んでいたので、ちょうど半年くらいたった頃です。

希望の家という施設は、1997年、国際看護師の大森絹子先生が創設したタイの山岳民族の児童養護施設です。

当時のタイの山岳民族は、貧困や麻薬、エイズ問題など多くの社会問題を抱えていました。親を亡くしたり、行方不明になったりした幼い子供たちが非常に増えていて、そういった子供たちを保護する施設の創設が急務だったのです。

大森先生は、現地のタイ人の親友夫婦と希望の家を創設して、ご自身は金沢大学看護学部で教授を務めながら、日本で運営資金を集め、施設に送金していました。


しかし同時に、大森先生は大きな問題を抱えていました。

肺からほぼ全身にガンが転移したガン患者だったのです。

まだ48歳。


すでに闘病生活は数年に渡っていて、もう積極的な治療はされていませんでした。


当時は今ほどインターネットが進歩していない時代です。

私はチェンマイの街中にあるプレハブ小屋の中に数台PCが並んでいるだけのインターネットショップに毎日通って、日本の病院にいる大森先生やご主人へ希望の家のようすを、大森先生やご主人から送られてくるメールの内容を希望の家のタイ人夫婦に伝えていました。

そんな中、12月4日に、大森先生の訃報が届きました。

ご主人によって書かれたメールの最後には、

「絹子の最期の言葉は、『希望の家を高木さんに託したい』でした」

と結ばれていました。


そのメールを見た時のショックは今でも忘れられません.。

当時、私はまだ27歳。

私はあくまで希望の家で、エイズや貧困で親を亡くした子供たちを取材するノンフィクションライターとして、関わっているだけでした。ひとつの児童養護施設をなんのノウハウもなく運営することなど、到底できません。

しかも、私は大森先生とは、日本でたった一度しか会ったことがありませんでした。


「キヌコの訃報」を希望の家に少しでも早く伝えるため、チェンマイの街をバイクで走りました。でも、その運転はまるで夢遊病者のようにフラフラしておぼつかない状態でした。

その年の12月は、本当に苦しくつらい月となりました。

今でも思い出すと胸が締めつけられそうになります。

タイに暮らしながら、毎日のように触れ合っている親を失った15名の子供たちの笑顔、かたや、ただメールで知らされただけで、なんの実感もわかないひとりの女性の訃報。

そして、その子供たちを保護する施設の運営を託したいという、突然の依頼。

混乱の中、解決策など見出せるわけもなく、毎日途方に暮れて過ごしました。

あれから、約20年の歳月が過ぎました。

希望の家は、現地のタイ人夫婦と大森先生の遺族によって支えられて、今も現地で山岳民族の子供たちのために運営されています。

私も運営委員の一人として、名前を連ねていますが、近年は名ばかりで目立った活動ができていないのが、残念です。

でも、21年間、12月4日の大森先生の命日には、ご遺族にメールを送り続けてやりとりを続けています。

21年間、絶やしたことのないメール。

内容は、私の近況を報告したり、希望の家の近況についてです。

もしかしたら、天国の大森先生へ送っている手紙なのかもしれない――。

最近、そういうふうに思うようになってきました。

そして、27歳だった私自身も大森先生が亡くなった年齢となりました。あれからずっと、希望の家や世の中の役に立ちたいと思って過ごしてきました。

20年前のチェンマイ。あの頃のたくさんの思い出は、時が経った今でも、昨日のことのように覚えています。

また少しずつ書き記していこうと思っています。